風林火山の武田軍って、第4次川中島合戦で、

Writer: admin Type: clarksre Date: 2019-01-06 00:00
風林火山の武田軍って、第4次川中島合戦で、ど~して先に動いてしまったんですかね?むしろ、風林火山を実践したのは、謙信公の方だった様な気がします。動かざること山の如し: 信玄が動くまで、妻女山で一歩たりとも動きませんよね。移動すること風の如く: 信玄が動くと察知するや否や即時に妻女山を降り、未明には信玄の本陣に襲いかかりますよね。静かなること林の如し: 雨宮の徒渉の「鞭声粛々」は有名ですよね。侵略すること火の如く: 車懸りの陣で一気に信玄の本陣を奇襲していますよね。共感した0###武田は24将などからなる合議制、上杉は謙信の専制君主制です。戦が長くなっても上杉は、謙信の部下は、謙信の決断をじっと待ちます。当の謙信は、最初から武田が動くまで待って信玄の首をとる先方で後の先を制すやり方です。一方、武田は戦が長くなり現場の声、現状の長所、短所を評定の場で論議して方向性を決めるやり方です。評定の場で山本勘助や馬場信春が上杉より軍勢が多いことを理由に戦略を建てるのは普通のことだと思います。更に、大軍で挟み撃ちは成功していれば上杉に大勝していたでしょう。結局、作戦面では武田の失敗でしたが武田軍は奮闘したので先制攻撃かけるのは間違いではなかったのではないでしょうか。まあ、上杉謙信の人間力というか胆力に遅れをとっただけで、普通の武将相手なら大成功に終わった可能性も大きいと思います。結論、山本勘助や馬場信春の上を謙信がいった。謙信は、大軍の不平や恐怖心、浮き足だす武将も尋常ではない精神力で押さえきった。凄いですね。ナイス0
###やはり、優将っていうのは、部下の意見を尊重してしまうのですね。小牧・長久手の秀吉もそうでした。
###え?待ちきれなかったから。以上。ナイス0
###あまり詳しくはないのですが・・。>信玄が動くと察知するや否や即時に妻女山を降り、未明には信玄の本陣に襲いかかりますよね。どうやって上杉軍が武田本陣を捕捉出来たかなんですよね。川の対岸で待ち構えている武田軍を迂回して背後から本陣を攻撃したとかなら分かるのですが。移動は夜間ですし、後を付けたとかでなければあらかじめ信玄がどこに陣を敷くか分かってないと出来ない芸当です。もちろん偶発的な要素も否定できませんが。車懸かりは夜間の行軍で陣が整わないまま各個に攻撃したと理解しています。武田側からしたら次々と上杉軍が現れたように見えたでしょうし現場判断で押したり引いたりもあったでしょう。ナイス0
###合戦地の川中島は上杉謙信の本拠の春日山城から近いが武田信玄の本拠の甲斐から川中島は遠く離れています。合戦が長期化すれば上杉と武田どちらが不利か素人でも理解できます。補給に不安を感じて長期戦きらって先制を、かけてくる、ってのは合戦で、よく、あったことです。ナイス0
###難しい話はまったくわかりませんが。なら参加するなという突っ込みは置いておいてもらって。武田にしろ上杉にしろ合わせると2割くらいの兵が戦死している戦争ですね。甲陽軍鑑が正しいのかその他史料で数千の兵は死んでいます。そして多分、両軍とも自分の方の戦死者は少なく発表するはずです。敵死者はやや多めに発表します。つまり大本営発表ですね。おそらく海音寺潮五郎(天と地との作者)は相当史料を読み込んでいるはず・・・証拠に小説では山本勘助は登場していません。多分・・・それなりに過激な戦争があったのは海音寺は承知しているはず・・・。ここからは推論やあるいは鈴木眞哉の説とか他の研究による記憶をたどりながら話したいと思いますが、戦国武将は一説によると兵を集めるのに苦労したとか。どこまで本当の話かは不明ですが戦争は農民の農閑期を中心に行われたとか徴兵の際は後方勤務とかをうたったりとか、村では解死人という人身御供を兵に出すとかあったとかあります。そのように人を集めるのに上杉も武田も約2割の死者を出す。けが人ならその数倍・・・そんな愚策はとらない、4回目の川中島は偶発的におこったのではないかと書いた本がありました。どういう事情かは不明だが武田の別動隊が動き(単なる場所の変更の可能性あり本当に上杉をつつこうとしたかも)一方で上杉も動く。そして上杉の行先にたまたま武田がいたという説です。ナイス0
###そうでなければ、決着のつけようが無かったからでしょう。第四次川中島の戦いでは、武田軍の方が兵力では優勢だったとされます。とすると、常識的に考えれば上杉軍が先に動くことは考えにくいです。野戦では、兵力差がそのまま戦況を左右しますし、武田軍と上杉軍の将兵の実力には大きな差がありません。兵力に勝る武田軍から仕掛けなければ、また睨み合いのまま兵を引き上げることになるのは、十分想定されます。ナイス0

 

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